満鮮日報影印シリーズ 全8冊

満鮮日報影印シリーズ 全8冊

《満鮮日報影印シリーズ 全8冊》是(株)亜東書店出版的圖書,作者是韓國教會史文獻研究院, 이성재(李性在), 야마구치(山口源二), 염상섭(廉想涉), 박팔양(朴八陽) 이용석(李容碩)。

基本介紹

  • 中文名:満鮮日報影印シリーズ 全8冊 
  • 作者:韓國教會史文獻研究院, 이성재(李性在), 야마구치(山口源二), 염상섭(廉想涉), 박팔양(朴八陽) 이용석(李容碩)
  • 出版時間:2017年
  • 出版社:(株)亜東書店
  • ISBN:9784990961602
  • 裝幀:平裝
  • 原作品:満鮮日報影印シリーズ 全8冊
內容簡介
『満鮮日報』1937年7月、日本により満州新京(現:長春)で発刊された朝鮮語の日刊紙。 既に発行されていた『満蒙日報』と『間島日報』を統合し『満鮮日報』という名稱で在満朝鮮人向けに発刊。1988年韓國亜細亜文化社が発行した全5冊収録以外の部分を今回影印出版。第1巻『満蒙日報』1937年7月,第2巻『満鮮日報』1940年10月-1940年11月,第3巻1940年12月-1941年1月,第4巻1941年2月-1941年3月,第5巻1941年11月-1941年12月,第6巻1942年1月-1942年3月,第7巻1942年4月-1942年6月,第8巻1942年7月-1942年10月。 満鮮日報の特徵― 満洲國で創刊され終戦近くまで続いた朝鮮語日刊紙。 朝鮮半島で活躍した言論人・文筆家を招き、 満洲國だけでなく中國、朝鮮半島情勢をも伝え、 政治、社會、経済、...(展開全部) 『満鮮日報』1937年7月、日本により満州新京(現:長春)で発刊された朝鮮語の日刊紙。 既に発行されていた『満蒙日報』と『間島日報』を統合し『満鮮日報』という名稱で在満朝鮮人向けに発刊。1988年韓國亜細亜文化社が発行した全5冊収録以外の部分を今回影印出版。第1巻『満蒙日報』1937年7月,第2巻『満鮮日報』1940年10月-1940年11月,第3巻1940年12月-1941年1月,第4巻1941年2月-1941年3月,第5巻1941年11月-1941年12月,第6巻1942年1月-1942年3月,第7巻1942年4月-1942年6月,第8巻1942年7月-1942年10月。 満鮮日報の特徵― 満洲國で創刊され終戦近くまで続いた朝鮮語日刊紙。 朝鮮半島で活躍した言論人・文筆家を招き、 満洲國だけでなく中國、朝鮮半島情勢をも伝え、 政治、社會、経済、文化を一望。 充実した文芸欄、音楽や演劇などの娯楽情報、 豊富な広告など多彩な紙面を構成。 『満鮮日報』の価値について― 1. 國內で活動した有名言論人と文筆家が參加し作った新聞であるということ。 満州事変以後、韓國國內の抗日言論が沈黙を強要された時期に満州の 『満鮮日報』は韓國語で言論と文學活動を広げることができる媒體であった。 2. 『満鮮日報』の記事取り扱い范囲と普及地域が満州だけでなく韓半島と中國 にまで伸びていた事、當時の韓國人の歴史と在満韓國人の生活と文化を理解 するのに貴重な資料。 3. 1940年8月『東亜日報』と『朝鮮日報』が廃刊された後、ソウルの 『毎日新報』と共に、解放まで持続的に発行された新聞として、 1937年から1942年までの5年間(35か月間)の記事が伝わり、政治、社會、 経済、文化など多方面からの接近が可能。 4. 文學に限定してその価値をいうならば、『満鮮日報』には少なからず 文學・芸能記事がのせられたところ。 まだこれに対する基礎的な分析もなされていない実情だ。 ヨム・サンソプ(廉想涉)、パク・バルヤン(朴八陽)、アン・スギル(安壽吉) など著名文人がこの新聞の紙面に作品を発表し、解放後韓半島に戻って 文筆活動をしたので、この新聞に発表された作品が以後の文學にどんな 影響を及ぼしたのか、巨視的で微視的な研究を進めるのに緊要。 (解題 李福奎 西京大學教授) 「満鮮日報影印シリーズ 」出版に寄せて― 早稲田大學名譽教授 大村益夫 『満鮮日報』は『満蒙日報』と『間島日報』を統合して1937年10月21日 に長春(當時の新京)で創刊され、日本の敗戦近くまで続いた日刊朝鮮語新聞。 従來あった韓國亜細亜文化社刊の影印本は五巻本で1939年12月1日から、 1940年9月20日まで。 今回亜東書店から刊行された影印本は、亜細亜文化社影印本の前と後の部分に あたり、全8巻からなる。したがって両者の影印は重複しない。 亜東書店の影印本は韓國の延世大學中央図書館等で保存されている マイクロフィルムの內容を越えるものではない。 (もともとソウルイメージ研究所が製作したマイクロフィルムを 延世大學等が所蔵していると聞く)だがマイクロフィルムは利用しづらか ったり、閲覧に制約があったりするので、今回の亜東書店の影印出版は そうした不便を解消してくれるものである。 今回の刊行は『満蒙日報』の1937年7月分と、 1940年10月以降1942年10月までの『満鮮日報』の影印である。 その中間に亜細亜文化社の影印が入る。 『満鮮日報』の刊行には「満州」における朝鮮人200萬人の「指導機関」 たらんとする官憲側の意図が働いている。 社長副社長以下スタッフの大部分は朝鮮人だが、 それより日本人主幹の発言が重役會議で重んじられた。 日本の資金によって設立運営された報導機関として當然と言えば當然であった。 それでも、朝鮮本國では日本語が「國語」とされ、朝鮮語の新聞雑志が 消滅寸前だった時期に、五族協和をスローガンとする「満州國」のもとで、 國內で抹殺されんとする朝鮮の息吹を朝鮮語をもって語るという役割を 『満鮮日報』は擔っていた。だから『満鮮日報』は「満州」在住の朝鮮人を 主體としながら、その運営には本國から人材が集まってきたし、 また本國の多くの人士も協力し寄稿もしている。 もちろん「満州」の地が楽園たりうるわけもなく、 『満鮮日報』も日を追っていわゆる親日的色彩を濃くしていく。 朝鮮人は苦悩を背負いながら、それでも「満州」唯一の発表機関であった 『満鮮日報』に集まってきた。 今回の影印でも不満足な點がある。原紙がない以上仕方のないことだが、 『満蒙日報』はごく一部であるし、『満鮮日報』も1941年4月から 10月部分が抜けおちているし、1942年10月以降もない。 これら未発見部分と、『民聲報』『間島日報』の発見がそろえば、 「満州」朝鮮人活動のほぼ全容が明らかになるだろう。 早稲田大學名譽教授 大村益夫 主要著書:「朝鮮近代文學と日本」㈱緑蔭書房2003.10 「「満鮮日報」文學関系記事索引」(大村益夫・李相范編) 早稲田大學語學教育研究 1995.11など多數

相關詞條

熱門詞條

聯絡我們