實川延松(1894年5月17日——?)是一名演員。最後訊息:1930年退出攝影所
基本介紹
個人簡介,參演作品,關聯事項,
個人簡介
1894年(明治27年)5月17日、大阪市に生まれる。舊制國小校を卒業、大阪歌舞伎の二代目實川延二郎に入門した。19歳になる1913年(大正2年)ころ上京、歌舞伎座に所屬しながら、演技座、大黒座、宮戸座等で修行する。
1919年(大正8年)に大阪に帰り、天然色活動寫真(天活)の大阪支店が経営する劇場で「連鎖劇」に出演する。天活は同年內に解體され、翌1920年(大正9年)5月、天活大阪支社と天活小阪撮影所を改組、帝國キネマ演芸(帝キネ)が設立されると同社に參加、中川紫郎とともに同社に入社した嵐璃徳主演、中川の監督作に多く出演、1924年(大正13年)までに90本以上に出演、主演もしたが、同年3月に帝キネを退社、松竹下加茂撮影所に移籍する。同撮影所でも30本近く出演したのち、翌1925年(大正14年)3月、野村芳亭監督の『京屋のお糸』への出演を最後に松竹を退社、嵐橘太郎、尾上多見右衛門、玉木光子ら一派をつれて獨立する。実川が31歳となる年である。
実川の獨立と同時期に、帝キネで実川の出演作を監督していた中川紫郎も獨立し、奈良市內に中川映畫製作所を設立、撮影所を建設していた。また同時期に同市內では小說家の直木三十三が映畫製作に進出、連合映畫芸術家協會を設立しており、その設立には、同時期に東亜キネマから獨立して、マキノ・プロダクションを起こした牧野省三が密接に協力していた。実川は、中川が製作した3本の映畫にすべて出演するかたわら、マキノ御室撮影所作品にも延松一派を引き連れて出演し、実川は主演した。実川が主演したマキノ作品のうち、1926年(大正15年)前半の1作は実川自身が監督した『性の爭奪』で、マキノ・プロダクション鷲尾撮影所で製作された。また同年3月には、実川の延松映畫社が製作した2作が公開された。そのうちの1作『丹生島』は実川が監督している。
參演作品
- 夜討曽我 1923年 監督中川紫郎、撮影大森勝、主演嵐璃徳
- 三勝半七 1924年 監督中川紫郎、撮影唐沢弘光、共演嵐璃徳、松枝鶴子
- 汀の桜 1924年 監督ヘンリー・小谷、腳本倉満南北、撮影吉田英男・鈴木博、主演市川荒太郎
- 獨立プロ時代
- 通り魔 1925年 指揮中川紫郎、監督広瀬五郎、原作佐々木味津三、撮影河上勇喜、共演嵐橘太郎 ※中川映畫製作所・連合映畫芸術家協會
- 猿 1925年 監督富沢進郎、原作・腳色中島寶三、撮影石本秀雄 ※マキノ・プロダクション御室撮影所
- 生玉心中 1925年 監督中川紫郎・広瀬五郎、腳本直木三十三、撮影河上勇喜、共演春日小夜子 ※中川映畫製作所
- 走馬燈 1926年 監督沼田紅綠、腳本人見吉之助、撮影石野誠三、共演玉木光子 ※マキノ・プロダクション御室撮影所
- 性の爭奪 1926年 監督 原作・腳本並木綠瓶、共演中村玉二郎 ※マキノ・プロダクション鷲尾撮影所
- 丹生島 1926年 監督 原作北藤順一、腳本食満南北、撮影寺浦潔 ※延松映畫
- 怪刀亂舞 1926年 総指揮マキノ省三、監督芝一美、原作・腳色小國狂二、撮影川尻嘉夫 ※延松映畫