たま

たま

たまは日本の音楽バンド。フォーク、ロックを主體にしながら非常に獨創的な音楽性で異彩を放った。1984年〜2003年活動。(翻譯:たま是主要在上世紀的1984年到本世紀的2003年活動的以日本的音樂、民謠、搖滾為主而打造出的很別具創意的精彩音樂組合。)

基本介紹

  • 中文名:たま
  • 外文名:バンド
  • 時間:1984年〜2003年
  • 國家:日本
メンバー編集,経歴編集,

メンバー編集

知久壽焼=ボーカル、ギター、マンドリン、ウクレレ、ハーモニカ
柳原幼一郎(現:陽一郎)=ボーカル、キーボード(オルガン、ピアノ、アコーディオン、鍵盤ハーモニカなど)、ギター
石川浩司=ボーカル、パーカッション、オルガン、笛
滝本晃司=ボーカル、ベース(『しょぼたま』ではトイピアノ、鍵盤ハーモニカ)
パブリックイメージでは「たまのボーカル」と言うと知久・柳原を指す事が多いが、実際は全員が均等にむらなく作詞作曲およびボーカルをとる。楽器はアコースティックギター、ベースに加えアコーディオン、足踏みオルガン、リコーダー、桶(檜制)・鍋・空き缶などを駆使したパーカッションを用いるなど、生楽器を中心としながらも型にはまらぬ構成、そして郷愁を誘う幻想詩・童歌のような陰のあるシュールな歌詞が特徴。柳原脫退(1995年)以降は、アコースティックな音の中にシンセサイザーやサンプラーを取り入れた曲を作っていった。

経歴編集

初期[編集]
北千住のライブイベントで知久と石川が知り合い、暗めという似通ったキャラであった事から意気投合。その1年後に両國のライブイベントで柳原に出會う。これらの相次ぐメンバーの出會いが、たま結成の切っ掛けとなる。
1984年11月11日それぞれライブハウスにてソロで音楽活動をしていた知久、石川、柳原により「たま」結成。 バンド名は特定の意味を持たないものにしたとの事。正式結成前には「かきあげ丼」という仮バンド名で一度ライブを行なっていた。
1986年滝本が加入し、4人編成に。ベーシストを募集したところ、応募が滝本だけだった事が起用の理由。滝本曰く「ライブハウスで共演して以來たまのファンになった」との事。しかし滝本は、當時ベースは弾いた事がなかったと言う。
1988年よりインディーズレーベル『ナゴムレコード』に參加。
イカ天出演[編集]
1989年11月11日、ナゴムから発売されるLP「しおしお」のプロモーションを兼ねてTBS系深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天國』(通稱:イカ天)にエントリーナンバー2番で出演。キャッチフレーズの“かなしい気持ちはとっても不安定”をそのまま體現するかのような楽曲「らんちう」や、都會風の派手な若者の集団という世間一般における「バンド」の概念からかけ離れた、一昔前の地方の青年を彷佛とさせる容姿で、視聴者に大きなインパクトを與えた。登場時のナレーションでも「また危ないのがやってきた」と言われている。
この時期は“色物”とカテゴライズされるバンドの登場が目立った(キングもカブキロックス、サイバーニュウニュウと2代続けてパフォーマンス重視のバンドだった)ことから、この回のスタジオには「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」という橫斷幕が掲げられていたが、たまはバンドとしての実力と獨特の不思議な世界観も余すところなく伝えきり完奏。
審査員の中島啟江は「"能ある鷹は爪を隠す"かもしれない」「涙出てきちゃった、それと同時に笑いも出てきちゃった」、グーフィー森は「変でしたね。こういうの分かるって言っちゃいけない、分からないんだけどいい」と評しておりたまの世界に引き込まれた様子であった。
この回は番組史上初の外國人バンドTOKIO ROSEがチャレンジャー賞を有力視されていたが、これに競り勝って見事チャレンジャー賞の栄冠に輝き、サイバーニュウニュウを審査員投票5対2で倒して14代目イカ天キングとなる。
グランドキングへの道~マルコシアス・バンプとの激闘[編集]
イカ天時代のたまを語る上で外すことができないのが、グランドイカ天キングを賭けた12月9日放送のマルコシアス・バンプとの対決である。
キングとなったたまはその後も勝ち続け、2周目となった11月18日の放送分ではのちに大ヒットとなる「さよなら人類」を歌い、「突然明るくなった」と好評を博し、審査員7名全員の支持を獲得するストレート勝ちでチャレンジャーの高校生バンドTRIDENTに圧勝する快挙も成し遂げた。
その後も3周目(11月25日放送分)には「オゾンのダンス」で坂本プロジェクトを、4周目(12月2日放送分)には「ロシヤのパン」でTimeless Childrenを順當に下し、3代目グランドイカ天キングにリーチをかける。
しかしここで強敵が登場した。當時廃れていたグラムロックを復活させて挑んできたマルコシアス・バンプ(楽曲は「バラが好き」)である。チャレンジャーとしてはもとより歴代キングの中でも強者の部類に入る彼らの演奏は審査員の絕賛を受け、圧倒的な差でこの回のチャレンジャーに選ばれた。
しかし、キングとして迎え撃ったたまの楽曲「まちあわせ」は、マルコシアスの重厚・豪華な演奏とは正反対の、ほぼアカペラのごく短い楽曲(後日メンバーは「負けるつもりでこの曲を選んだ」と心中を語った)で審査員を唖然とさせ、マルコシアス・バンプのメンバー、秋間経夫が「だってすごいんだもん…」と自信を失くすほどのインパクトを持っており、票決は割れた。司會の三宅には「意外な曲できちゃったね」「5周目にこれで來ることないじゃない、ねえ」「審査員の皆さんみんな困っております」「土表が違う」と言わしめた。
結果として接戦の末4対3とたまが一枚上回って制し5周連続勝ち抜き、第3代グランドイカ天キングを達成したが、敗北したマルコシアスにも審査委員長・萩原健太より「翌周仮キングスタート」の提案がなされ、審査員も甲乙付け難い心情から全會一致でこれを支持。最終的に製作サイドも承認し、番組史上初となるその場で敗者復活決定という異例の措置が取られた。
彼らが出演していた時期(番組內の用語では「イカ天戦國時代」)は現在でも活動を継続していたり、後の音楽シーンに影響を與えたレベルの高いバンドが次々輩出しており、この時期を「イカ天の最盛期」、前述のたまグランドイカ天キング達成+マルコシアス仮キング決定回を「イカ天史上最高の回」「イカ天の頂點は武道館ではなく、たまとマルコシアスの対決」などと評価するファンは多い。
なおこの対決以來、マルコシアスのベーシストの佐藤が、たまの各メンバーのソロアルバムに參加・滝本が佐藤にベースを貸す(共にギブソン派である)等、両バンドのメンバー間には親交がある。
たま現象・メジャーデビュー[編集]
『イカ天』出場後、彼らの周囲の狀況は劇的に一変。「たま現象」と呼ばれる社會現象的な人気となり、テレビ・ラジオ・雑志など各メディアにも引っぱりだことなった。當時ナゴムレコードが抱えていた負債も、彼らの音源売り上げにより完済された。なお「たま現象」の語は1990年の『現代用語の基礎知識』にも収録された。
1990年、シングル『さよなら人類』でメジャーデビュー。寶酒造「純・アレフ」のCMタイアップとなり、オリコン初登場1位、売上げも58.9萬枚を記録。NHK紅白歌合戦への出場も果たす。同曲は後に『BEAT BAND KARAOKE天國』(東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン))や『Young Pops Best Hits』(日本クラウン)など、當時のヒット曲を集めたオムニバスアルバムにも収録されている。
メジャーデビュー以降初のCM出演となった川崎制鉄(現・JFEスチール)のCMでは、各メンバー4人分のテイクが製作され、それぞれのテイクでCMソングとして使用された楽曲の製作者が、最後にキャッチコピーの「ピテたまトロプス・川崎制鉄」を言うという仕様だった(「らんちう」-知久、「まちあわせ」-石川、「オゾンのダンス」-柳原、「海にうつる月」-滝本)。後に4人全員で「カオス・パワーだ。川崎制鉄」と言うバージョンも製作されている。
『イカ天』內のコーナー『ロックロックこんにちは!』でも「密著たま現象を追え」とのタイトルで特集が組まれ、子供までも彼らの歌の歌詞を全て覚えているという社會現象ぶりが審査員に沖撃を與えた。姉妹番組「別冊イカ天ベスト天」の特集「こんなバンドに誰がした!」でも異彩を放つトークを展開している。
NHK「ミッドナイトジャーナル」で特集が組まれ、その日コメンテーターとして出演していた竹中労は彼らを「日本のビートルズ」と稱し「彼らのことは絕対本に書く」と絕賛、その後1990年11月に「たまの本」を上梓した。
息の長い活動[編集]
1992年、友部正人との共作『けらいのひとりもいない王様』をリリース。その後、より自由な活動を求めて所屬事務所から獨立し、夏に個人事務所たま企畫室を設立、レーベルを日本クラウンから東芝EMIに移籍した。
1992年頃にはバンドブームも下火になり、「オゾンのダンス」以降は次第にヒットチャートやメディアに現れることも無くなっていったが、マイペースに活動を継続。吉祥寺などのライブハウスで「月例會」と稱した月一回の定期ライブも行っていた(2002年1月まで)。またライブハウスや會館等のコンサートホールだけでなく、普段はライブの行われる事のない寺や酒蔵、洞穴と言った場所でもライブを行う「どこでもツアー」と稱したライブツアーを行っていた。
1995年、自主レーベル・地球レコードを設立、インディーズでの楽曲リリース。
1995年末のライブを最後に、柳原がソロ活動に専念するため脫退。
1996年からは3人での活動となる(通稱3たまと呼ばれる)。ライブでは斉藤哲也(ナタリーワイズ/アンダーカレント)やライオンメリィ(ヴァージンVS/ヤプーズ/メトロファルス/エコーユナイト)らをキーボードのサポートとして迎えた。その一方で、サポートミュージシャンを入れず、3人で各自小型の楽器を使い、より手軽でチープな雰囲気を狙った『しょぼたま』という編成でもライブを行った。
1996年6月、アニメ『ちびまる子ちゃん』のED曲として作られた『あっけにとられた時のうた』でメジャーレーベルに復帰。
1997年吉田戦車の漫畫『ぷりぷり県』のイメージアルバム『パルテノン銀座通り』をリリース。
2001年NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』挿入歌『ハオハオ』の作曲・演奏を擔當(編成は上記の「しょぼたま」に相當。知久はウクレレ、滝本は鍵盤ハーモニカ)。5月に番組のファミリーコンサートにゲスト出演し、『ハオハオ』で歌のおにいさん(杉田あきひろ)・おねえさん(つのだりょうこ)と共演(知久は2番以降でボーカルも擔當)した他、栗原正己作曲の『あめふりりんちゃん』では栗コーダーカルテットとも共演した(このときの模様は、番組からビデオ・DVDが発売されている)。7月、劇団ナイロン100℃主宰ケラリーノ・サンドロヴィッチ作の舞台『室溫〜夜の音楽〜』に出演、役者および劇中曲を擔當。
2003年3月、劇団ダンダンブエノのダンス公演『いなくていい人』に出演。
2003年10月、吉祥寺STAR PINE'S CAFEでのライブ「たまの最期!!」をもってバンド解散。解散公演の最終日、ホフディランのワタナベイビーが飛び入り參加し、柳原脫退以後封印されていた『さよなら人類』も演奏された。
解散後[編集]
各メンバーはソロあるいはバンド、ユニット形式での音楽活動を続けている。
知久と石川は、たま活動時と平行してロケット・マツ率いる14人編成バンド『パスカルズ』に參加。
石川は同じイカ天出演バンドでありキャラクターが似通った突然段ボールともたびたび共演している。
知久と滝本はロケット・マツが『パスカルズ』と並行して活動している「2ni」に參加。また、知久は、滝本のソロアルバム「水槽の中に像」にギターやウクレレ、笛、ベトナムのカエル型の木製楽器であるモーコック、コーラスで參加したり、コーラスアレンジを手掛けている。
2008年8月8日夜、8月9日晝/夜吉祥寺Star Pine's Cafeにて『たまの10年前の約束ライブ』と題したライブをしょぼたま編成で行った。
2008年5月下旬 、ライブ概要が公式サイトで発表された。
このライブは、1998年のファンクラブ壱岐ツアーの參加特典として『10年後の2008年8月8日たまのライブにご招待しますチケット』が參加者全員にプレゼントされていたために実施された。
一般販売分のチケットは全てプレイガイド売りだったが、初回発売の8日夜公演・9日夜公演ともに発売數分で完売し、チケット完売に伴い急遽決定した追加公演分の9日晝公演も即ソールドアウトとなった。
2010年12月、たま解散後の彼らの活動を追ったドキュメンタリー映畫『たまの映畫』が、テアトル新宿にてレイトショー公開。監督は本作が劇場映畫デビューとなる今泉力哉。
その他、柳原を除く殘りのメンバー、知久・石川・滝本の3人は各々のライブイベントで共演し、數曲のみセッション(いわば「一時的な再結成」)もたびたび行っている。
2008年4月27日山口マオ主催の千葉県・千倉潮風王國アートフリーマーケットにて、しょぼたま編成で數曲演奏。
2010年1月14日阿佐ヶ谷・Loft Aにて行われた『ニヒル牛おっさん7』で3人が共演。滝本がベースで、なおかつ正規のサポートキーボードが入る編成は、解散以來初。
2011年3月19日西荻窪・THE“ロック”食堂にて行われた震災募金三夜連続ライブ「偽善者たちの夜~第一夜~」で3人が「まちあわせ」を演奏。この模様はUSTREAMで配信された。
2011年5月1日、3年前の2008年千倉潮風王國アートフリーマーケットと同じく同會場に3人が揃い、しょぼたま編成で數曲演奏される。

相關詞條

熱門詞條

聯絡我們