氏家守棟

氏家守棟是活躍於日本戰國時代的武將,最上氏家臣。守棟是氏家定直之子,從主君最上義守處拜領了“守”字而得名守棟。通稱尾張守。

基本介紹

  • 中文名:氏家守棟
  • 外文名:氏家 守棟
  • 國籍:日本
  • 民族:大和族
  • 出生地:岀羽國
  • 出生日期:1534
  • 信仰:神道教
生平,翻譯,

生平

氏家 守棟(うじいえ もりむね、天文3年(1534年) -天正19年(1591年)は、戦國時代から安土桃山時代にかけての武將最上氏の家臣。氏家定直の子で、主君・最上義守からの1字拝領により、守棟を名乗った。尾張守を稱す。
謀略の才があり、義守の後継である最上義光から最も厚く信任を受けていたと言われている。天童氏や白鳥氏の討伐などで數多くの獻策し、天童氏に屬していた延沢満延を味方に引き入れたのも守棟である。その謀略の才を最も見せつけたのは、1581年鮭延秀綱が守る真室城攻めである。守棟は城を力攻めするのではなく、秀綱の重臣である庭月広綱を調略において味方に付け、秀綱の戦意を喪失させ、ほとんど戦いらしい戦いもなくして秀綱を降伏させたのである。
1591年、死去。嫡子はすでに戦死していたため、家督は従兄弟の子にあたる成沢光氏が継いだ。光氏も守棟と同じく尾張守を稱した為に、混同された資料もあり、晩年の業績は定かで無い部分も多い。

翻譯

守棟頗有謀略,深得主君最上義光(最上義守之子)的信任。在最上氏攻略白鳥氏和天童氏的時候多次出謀劃策,包括寢返天童氏猛將延澤滿延的行動也是守棟一手策劃的。守棟的謀略最為閃耀的一戰是1581年對鮭延秀綱駐守的真室城的攻略。守棟並沒有採取強攻的策略,而是通過調略鮭延氏重臣庭月廣綱而讓秀綱戰意盡失,由此使得秀綱最終降服於最上氏。
1591年去世。由於嫡子戰死的緣故,家督之位由堂兄之子成澤光氏(氏家光氏)繼承。由於光氏和守棟兩人都通稱尾張守,因此在資料記載方面存在混淆的情況。所以守棟晚年的業績有相當多的部分是未有定論的。

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