最上家親

最上家親是駿河守,屬於最上家第十二代的當主。

(1582~1617) 駿河守,最上義光次男,最上家第十二代的當主,身居五十七萬石羽州大名(實際已遠遠超過這個數字,擁有了八十萬石至一百萬石之高),1594年做了德川家康的小姓,而最上義光的另一個兒子最上義親則追隨豐臣家,這也是類似於真田家(幸村與幸長的歸屬一樣),但這也為後來二人的不合埋下了隱患,在大阪在大阪之戰時最上家親與三弟清水義親不和,曾擔任過豐臣秀賴身邊人質的義親被懷疑與大阪方內通,被逼迫自害。而家親也因為內亂而被害!而最上家的領地也被沒收。
最上 家親(もがみ いえちか、1582年(天正10年) - 1617年4月11日(元和3年3月6日))は、江戸時代前期の大名。最上義光の次男で、最上氏の第十二代當主。
1594年、徳川家康の近侍として仕え、家康のもとで元服する。1595年からは家康の子・徳川秀忠の家臣として仕えるようになる。家親の父・義光は豊臣秀吉亡き後、家康が天下人になることを予見して、早くから家親を徳川氏に仕えさせたのである。1600年の関ケ原の戦いでは秀忠に従って真田昌幸が守る上田城攻めに參加した。
家親の兄・最上義康は父の義光によって殺されていたため、1614年に父が病死すると、その後を継いで最上氏第十二代當主となった。同年、大坂の陣が始まると豊臣氏と懇意にあった弟・最上義親を殺害し、徳川方に與することを表明した。そして江戸城の留守居役を務めている。
1617年、山形城にて急死した。死因については諸說があるが、『徳川実記』においては「猿楽を見ながら頓死す。人皆これを怪しむ」とあるように毒殺說が有力である。家親生前からすでに最上氏の內紛は始まっていたが、死後、最上義俊(家親の子)と山野辺義忠(家親の弟)との間で、內紛はさらに激化することとなった。

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