《定本久生十蘭全集第二巻》是國書刊行會出版的圖書,作者是久生十蘭,江口雄輔他編
基本介紹
- 中文名:定本久生十蘭全集第二巻
- 作者:久生十蘭、江口雄輔他編
- 出版時間:2009年1月
- 出版社:國書刊行會
- 頁數:680 頁
- ISBN:9784336050458
- 定價:9975 日元
- 裝幀:精裝
內容簡介
第二卷は『キャラコさん』&『顎十郎捕物帳』という、十蘭の代表的なシリーズ作品が二つも收録されています。代表作「ハムレット」のプロトタイプ「刺客」も收録されていますし、全集の第二卷という中途半端な形ながら、これから十蘭を読もうという人には意外とお勧めの一冊じゃないでしょうか『新版八犬伝』(1938.4)★★★★☆――信乃は先君足利持氏の幼君春王、安王の御遺品村雨の名刀を、成氏卿に獻上するため、明日古河へおもむく。戰で傷を負い領地を姊夫婦に譲りながらも、父がこれだけは手放さなかつた重寶である。三一版全集未收録。馬琴『南総里見八犬伝』の犬士集めの部分をテンポのいい文體で再話したもの。おおまかな筋は原作通りであるものの、浜路の台詞回しがやけに婀娜っぽかったりするところが十蘭的というか現代的というか。「刺客」(1938.5~6)★★★★★――第一の手…(展開全部)第二卷は『キャラコさん』&『顎十郎捕物帳』という、十蘭の代表的なシリーズ作品が二つも收録されています。代表作「ハムレット」のプロトタイプ「刺客」も收録されていますし、全集の第二卷という中途半端な形ながら、これから十蘭を読もうという人には意外とお勧めの一冊じゃないでしょうか『新版八犬伝』(1938.4)★★★★☆――信乃は先君足利持氏の幼君春王、安王の御遺品村雨の名刀を、成氏卿に獻上するため、明日古河へおもむく。戰で傷を負い領地を姊夫婦に譲りながらも、父がこれだけは手放さなかつた重寶である。三一版全集未收録。馬琴『南総里見八犬伝』の犬士集めの部分をテンポのいい文體で再話したもの。おおまかな筋は原作通りであるものの、浜路の台詞回しがやけに婀娜っぽかったりするところが十蘭的というか現代的というか。「刺客」(1938.5~6)★★★★★――第一の手紙「今日から伊豆の小松といふ家に秘書にまゐります」第二の手紙「思ひがけぬ事情のために、またお手紙を差し上げます。秘書とは一杯飧はされ、実は此處に住んでゐる神経病者のお相手が仕事だつたのです。『ハムレツト』の芝居の最中に頭を打ちつけて、自分をハムレツトだと思い込んでしまつた子爵なのでした」前半はピランデルロ『エンリコ四世』にハムレットを流し込んだ翻案小說なのかな(とはいっても、佯狂問題に『ハムレット』をあてがった時點でそれだけでも「勝ち」でしょう)、と思っていたのですが、途中から十蘭らしい戀愛要素やミステリ要素が強くなりました。三一版全集未收録。そのための書簡體であるとはいえ、個人的には最後のミステリ仕掛けが余計に思えます。それほどにピシッと締まった作品ですし、「佯狂かどうか」ではなく「誰が××したのか」の方に問題が移ってしまった舉句のあの仕掛けですから、ちょっと意外性を狙いすぎに思えてしまいました。「モンテ・カルロの下著」(1938.6)★★★★☆――リュウ・ド・リラのホテルに二人の日本のお爣さんが住んでいた。一人はソルボンヌの理科の書生さん。もう一人はノアイユの「舳人形」を愛誦しているとりとめのないお爣さん。通りひとつ隔てたところに住む支那琉金のやうな顏をした日本のお爣さんが賭博館《カジノ》で卅萬法を當てたというものだから、ソルボンヌさんも百発百中のシステムに取り組んだ。三一版全集未收録。『ノンシヤラン道中記』風に凸凹コンビが繰り廣げるユーモア小說。「腰に手を當てゝ、料理女が女主人に抗議をするあのポーズで」という、まざまざと繪が浮かぶ素晴らしい譬喻がありました。一歩間違えれば奇をてらっただけになりかねないのだけれど、これははまってます。「モンテカルロの爆彈男」(1938.9)★★★☆☆――勝負事をするはいいが、日本の名折れになるやうなことばしたら、二度とこの船に上せんぞ――。船長のこの言葉に、金山は負けるわけにはいかなくなつた。三一版全集未收録。〈モンテカルロ〉が二篇続きますが、別にシリーズものではありませんでした。カジノが舞台ということです。わしゃあ日本男兒じゃあ!的な作品です。『キヤラコさん』「社交室」(1939.1)★★★★★――剛子がキヤラコの下著をきてゐるのを従姊妹たちに発見され、それ以來キヤラ子さんと呼ばれるヤうになつた。かくべつ不服には思はない。キヤラコの下著を別に恥だとかんがえないからである。垢じみた絹の下著をひきずりまはすよりは、サツパリとして、清潔なキヤラコを著てゐる方がよつぽどましだ。何てかっこいいんだキャラコさんは。「絹ではいかんな。木綿のやうな女でなくてはいかん」という長六閣下にもしびれます。真っ直ぐなキャラコさんの「槙子がどんなに苦しんでゐたかよくわかる。それを察してあげることが出來なかつたのは、やはり、自分が未熟だからに相違ない」をはじめとしたくだり、桜庭一樹っぽい感じもするのですが。解題によれば、當初は単発の読み切り作品の予定だったらしく、果たしてそのせいなのか、おいおいと思うくらいのハッピーエンドです。「雪の山小屋」(1939.2)★★★★★――いつもなら森川夫人がお轉婆さんたちの世話やきと監督にやつてくるのだが、今年は身內が戰地へ行つてゐるから來られない。かういふ場合にはキヤラコさんに白箭の矢がたつ。六人は雪山で出逢つた紳士に『チヤーミング・プリンス』と名をつけた。「とても上品なの」「おやおや」かしまし娘たちの戀愛ごっこがやがて深刻な事態をもたらすのですが、なるほどひとつ「大人」になったのだとわかるシーンにはじーんと來ました。「何しに行つたか、つて?(中略)……つまり、ひと泣き、泣きに行つたのさ」だなんて、ド演歌な台詞もあったりするのに、それを口にするのがおっさんなどではなく戀に戀する乙女たちだからこそ、胸に迫ります。「蘆と木笛」(1939.3)★★★★★――今年十九歳になる少女が四千萬圓の相続人になる。世界的なビツグ・ニユウスに、東京中の新聞社が狂氣のやうに走り回つてゐたため、キヤラコさんは半月ほど前から溫泉宿でとりとめのない日々を送つてゐる。宿に泊まつてゐる佐伯氏は南京の戰爭で失明した名譽ある傷痍軍人である。真っ直ぐなキャラコさんが正體を偽っていた人の心を溶かす、というプロットは「社交室」と同じですが、こちらはよりミステリ仕立て。キャラコさんの親切もより具體的で、木に鈴をつけるという発想には読んでいるこちらも感動してしまいました。漫畫などではライバル役が主人公と人氣を二分したりするのもよくあることですが、このシリーズでもキャラコさんが曇りのない善人なだけに、憎まれ役たちの屈折した純粹さも光ります。キャラコさんは素質ではあっても不幸とは縁遠い人だから。長六閣下の手紙の末尾を真似るキャラコさんが可愛い。「女の手」(1939.4)★★★★★――キヤラコさんが山道を歩いてゐたところ、四人の男がキヤラコさんをおしのけるやうな亂暴な仕方で追いぬいてゐつた。この四人の男は、じつは本科で『中性子放射』の研究をしてゐた若い科學者たちだつた。祖國の苦難に協力したくて、廢棄金山を復活させやうと申しあわせ、休みもせずに乾麺麭だけで作業をしてゐるといふのだ。初出タイトル「虹色の旗」。限られた材料と道具だけでキャラコさんが作りあげる料理には一読の似値あり。ある意味で日常の謎ミステリの佳品です(特に○○○の使い方と伏線が)。キャラコさんのなかでも表向きの戰意高揚的な要素が比較的強い作品でもありますが、でも実は巧妙な戀愛小說でもあるのではないかと。「鴎」(1939.5,6)★★★★★――キヤラコさんはイヴオンヌさんに誘われて、アマンドさんの快遊船《ヨット》に乘つてゐた。射撃會のことを考えると、負けることの嫌いなレエヌさんとまた競爭になりさうで、氣が重くなる。レエヌさんと女學校の二年まで同級だつた。カナダ人の父を亡くしてから、お金持ちの叔父さんに引きとられたのだといふ。「赤い孔雀」と「幸福な朝」というまったく別々の二作を単行本化に當たり改作し一本にまとめたもの。ここでキャラコさんは、自分が真っ直ぐなだけではどうにもならないことに直面します。しかも一番大事な場面で、心ならずもそれまでの信念を曲げてしまった。。。。キャラコさんは大金を相続したことを必ずしも幸せだとは思っていませんし、誰にとって何が幸福なのかが問われる作品です。それだけにオリジナルの「幸福な朝」というタイトルに、いったいどんな話だったのかが氣になります。続刊には異稿も收録されるそうなので、この話も收録されることを願います。「ぬすびと」(1939.8)★★★★☆――しばらくね、というかわりに、左手を氣取つたやうすで頰にあて、微笑しながら、黙つて立つてゐる。緋娑子さんを見たとき、キヤラコさんは、思わず眼を見はつた。すつかり垢抜けがして別なひとのやうだつた。「小さな劇團にはいつて婚約したから、何もかも清算しておきたいの。手紙の束を、悅二郎さんから、盜んで來てちゃうだい」初出タイトル「盜人と懸巣」。これまでの各話と比べるとドラマ性はありません。中心になるのはキャラコさんの內面の葛藤です。むしろそれよりも、緋娑子さんの元カレ悅二郎さんの御母堂のキャラクターが強烈でした。キャラコさんの食いっぷりもいい。「海の刷畫」(1939.9)★★★☆☆――沖のはうから、金髮が泳いで來る。每朝、時間をきめて泳いでゐるのだとみえ、「お早やう《グツド・モオニング》、お爣つちやん《リツトル・ウイメン》」と挨拶して泳ぎ抜けてゆく。初出タイトル「海の青年隊《ユウゲント》」。かしまし娘ふたたび登場。これはわりと少女探偵團といった屬性だし、いかにも戰時中らしい屬性だけれど、最後のひとことがキャラコさんシリーズらしい。「月光曲《ムウン・ライト・ソナタ》」(1939.7)★★★☆☆――勇夫兄さま、新しい鄰人はたいへんに橫暴なの。あたしは、これからお鄰りの傍若夫人(あたしの灑落も舍てたもんでないでしやう?)のところへ出かけて行つて、よくうかがつてくるつもりなのです。「お母さま、おるす?」とたずねますと、少年は「ボク、ひとりなの」と答えました。キャラコさんの一人稱の書簡體形式といい、少年のヘンテコな敬語といい、シリーズ中の異色作。言うなればキャラコさんの文體で語られるキャラコさんというわけですが、十蘭の文體で語られるキャラコさんほど魅力的でないのはご愛敬。ボクという一人稱をそのまま呼びかけにして「ボクさん」と呼びかけるセンスが獨特です。「雁來紅《はげいとう》の家」(1939.10)★★★★★――坂の途中に、木造建ての小さな骨董店がある。なにげなく覗いたのが癖になつて、キヤラコさんはかならずこの飾窗《シヨウ・ウインドウ》の前で足をとめる。それは、一見、平凡な繪だつた。長椅子に十七、八の少女が掛けてゐる。その向う側に、二十五、六の青年が、おだやかな眼差しで少女の橫顏を眺めてゐる。この繪のことを考えると、キヤラコさんは、胸んところが、熱くなつたり冷たくなつたりして、妙に落ち著かなくて困るのだつた。戰時中は制限があったであろう戀愛小說を、恩人に對する敬慕という教育的な形にすり替えた作品――だと思っていいのだろうか?そもそも『新青年』に少女小說というのが不思議な感じがするのだけれど。あれだけ優等生なキャラコさんがときめいているというのはそれだけで大事件です。しかも青年の最後の台詞が、からかっているとはいえロマンチック。「馬と老人」(1939.11)★★★★☆――「たんと飧べろ。……あわてずと、ゆつくり飧べえよ」ところで、槽の中にはたんと飧べるほどの秣ははいつてゐない。間もなく槽の底が見え出す。優しさと愛情とプライ。 ------------------