養生訓・和俗童子訓(1991年岩波書店出版的圖書)

養生訓・和俗童子訓(1991年岩波書店出版的圖書)

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《養生訓・和俗童子訓》是岩波書店出版的圖書,作者是貝原 益軒,石川 謙 校訂

基本介紹

  • 書名:養生訓・和俗童子訓 
  • 作者:貝原 益軒、石川 謙 校訂
  • 出版社:岩波書店
  • 出版時間:1991年6月
  • 頁數:309 頁
  • 裝幀:単行本
  • ISBN:9784000070324
  • 叢書:ワイド版 岩波文庫
內容簡介
『養生訓』は、體と心を一體に見た人間のトータルな健康法をまとめた書で、醫學や儒學などの學問を基礎にして、飲食上の注意や長生きの秘訣、生活上の心構えなどがわかりやすい言葉で述べられている。『和俗童子訓』は、日本最初の教育論として名高い書。どちらも、江戸時代のベストセラーである。 全8巻からなる『養生訓』は、第1巻と第2巻が「総論」にあてられている。冒頭、人の身は父母が殘した天地の賜物であるから健康に気を配り長生きを心がけよ、という言葉から始まり、養生の目的や意義、基本的な心構えなどが説かれている。以降、第3巻、第4巻は飲食について、第5巻は目や耳、口などの「五官」や入浴、就寢について、第6巻、第7巻は病気について、第8巻は老人や幼児について、種々の健康法や注意點などが続いている。 虛弱の人は餅・団子を控えよとか、宴席ではとくに食事の量を抑えよといった具...(展開全部) 『養生訓』は、體と心を一體に見た人間のトータルな健康法をまとめた書で、醫學や儒學などの學問を基礎にして、飲食上の注意や長生きの秘訣、生活上の心構えなどがわかりやすい言葉で述べられている。『和俗童子訓』は、日本最初の教育論として名高い書。どちらも、江戸時代のベストセラーである。 全8巻からなる『養生訓』は、第1巻と第2巻が「総論」にあてられている。冒頭、人の身は父母が殘した天地の賜物であるから健康に気を配り長生きを心がけよ、という言葉から始まり、養生の目的や意義、基本的な心構えなどが説かれている。以降、第3巻、第4巻は飲食について、第5巻は目や耳、口などの「五官」や入浴、就寢について、第6巻、第7巻は病気について、第8巻は老人や幼児について、種々の健康法や注意點などが続いている。 虛弱の人は餅・団子を控えよとか、宴席ではとくに食事の量を抑えよといった具體的な実踐論がある一方で、養生の根幹だという「心を平らかにし、気を和やかにし、言をすくなくし」といった訓示もたくさん見つけられる。健康といえば體の問題だと考えがちな現代人にとって、新鮮に響く部分である。同じように『和俗童子訓』も、教育の原點を再考するうえで示唆に富む內容になっている。 自分の心身にとって「自然」な生き方こそが、仕事や生活の充実につながることは間違いない。過剰な行いを戒め、節度を説く本書から、そのヒントが得られそうだ。(棚上 勉) --此文字指其他 文庫 版本。 健康・長壽を保つための心構え,具體的な食餌法など養生の道を,和漢の事跡を引用しつつ平易に述べた『養生訓』は,科學的健康管理の方法を儒教道徳と結びつけて説いた書として江戸時代広く庶民の間に読まれた.わが國最初のまとまった教育論の書である『和俗童子訓』とともに現代人にも多くの示唆を與えるであろう. 貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草學者、儒學者。 筑前國(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、號は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通稱は久兵衛。 1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに觸れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩醫として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留學で本草學や朱子學等を學ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が來訪した。7年間の留學の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩內での朱子學の講義や、朝鮮通...(展開全部) 貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草學者、儒學者。 筑前國(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、號は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通稱は久兵衛。 1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに觸れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩醫として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留學で本草學や朱子學等を學ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が來訪した。7年間の留學の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩內での朱子學の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を擔った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩內をくまなく歩き回り『筑前國続風土記』を編纂する。 幼少のころに虛弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で觸り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文體でより多くの人に判るように書かれている。 70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270餘巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。 『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した。 思想書としては、1712年(正徳2年)の『自娯集』。學問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子學への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある。 1714年(正徳4年)に沒するに臨み、辭世の漢詩2首と倭歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を殘している。 1911年(明治44年)6月1日、贈正四位。

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